放送大学、衝動試聴
2004年 11月 04日
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あぁ〜、今日も勉強してないな〜、と思いつつ先ほどスカパーを見ていた。初めはCNNでブッシュさんの話をやっていたのでそれを少し見ていたのだが、CMになったのでふと放送大学にチャンネルを合わせてみた。
何やら演劇の話をしている。でも講師の先生の話になぜか引き込まれる。ご飯を食べながらムムウ〜、と見ていたら、つい最後まで見てしまった。途中、ついメモなど取ってしまった。面白かった!!
本田和子先生「子どもと若者の文化'01」。
先ほど、アマゾンのマーケットプレイスでこの先生のテキストの古本があったので、つい購入。本当に便利な時代です。
内容は、全部見たわけではないので正確ではないかもしれませんが、私なりに理解した範囲では次の通りです。
演劇の世界では60年代後半から、それまでの既存の演劇のスタイルではない新しいスタイルが現れるようになった。第一世代は60年代後半で、寺山修司とかもその中に入る。そこでは若者は鍛えられた肉体を出しながら演技したり、寺山修司(だっけかな?他の人だったかも?)のように、市街演劇と言って、見に来た人まで巻き込むような演劇が行われた。
第二世代はつかこうへい。蒲田行進曲。ここで少し演劇に娯楽の要素が加わり、第三世代、80年代に入り、野田秀樹たちに代表されるような、「軽い体の動き」を前面に出したような演劇が現れる。
これらの演劇の変化は、若者の文化とちょうどマッチするというのだ。
つまり、60年代後半あたりは、大学紛争があってそれまでの大学のあり方に疑問を投げかけるなど、既存のものに対する反抗心をむき出しにしてぶつかって行く若者の姿勢が目立っていたのに対し、80年代に入ると、もっと「軽く」「やさしく」という風潮が重んじられるようになった。そしてそのことは、ウオークマンなどの小道具の発達もあって、若者たちがどんどん自分一人の世界に入って行くということになっていった。
最近では、携帯メールをどこでも構わず、時には講義中でさえも打って、「そこにいない誰か」と交信をする。インターネットカフェなども同じ。
それが、80年代頃はまだそういうことが意識化されていたのだが、最近ではそういう産業化の更なる発達(ネットや携帯)も手伝って、若者たちが何の疑問もなくそういう一人の世界にすっと取り込まれて行く。何事もあまり深入りせず、ぶつからず、優しく、自分一人に引きこもって行っている。
それらの小道具がそのような若者を作り出して行く格好の小道具として働いた原因としては二つのことが考えられる。
一つは、社会学者の栗原あきらさん(涁?字がわからない。)がおっしゃっているように、どんどん産業化社会が進み、時代の流れが速くなって行っている、そのような変化に巻き込まれていかないための一つの防衛手段だろう、ということ。
もう一つは、60年代70年代のアングラ劇などにも象徴されるように、その時代にあまりにも既存の価値観を壊しすぎてしまったために、様々な価値観が共存し、浮遊するようになった。その結果、何か一つの価値観に頼れないかわりに、他の価値観とぶつかることもないので、そのようにその中の一つにひっそりと身を隠していた方が楽である、ということ。これは本田先生の解釈かな?
というようなところで今日の放送は終わりでした。
むむー、そうか。なるほど。。そういうつながりもあるのだなあ。
今日はただ引き込まれて聞いてしまっただけだが、テキストを早く読んでみたい。
確かに、何かの出来事というのはそれ単独で起こるのではなく、他の様々なことと絡み合って起こっていることだと思うので、これはとても興味深いお話であった。
休日は、こういうゆとりがあるから好き♪
何やら演劇の話をしている。でも講師の先生の話になぜか引き込まれる。ご飯を食べながらムムウ〜、と見ていたら、つい最後まで見てしまった。途中、ついメモなど取ってしまった。面白かった!!
本田和子先生「子どもと若者の文化'01」。
先ほど、アマゾンのマーケットプレイスでこの先生のテキストの古本があったので、つい購入。本当に便利な時代です。
内容は、全部見たわけではないので正確ではないかもしれませんが、私なりに理解した範囲では次の通りです。
演劇の世界では60年代後半から、それまでの既存の演劇のスタイルではない新しいスタイルが現れるようになった。第一世代は60年代後半で、寺山修司とかもその中に入る。そこでは若者は鍛えられた肉体を出しながら演技したり、寺山修司(だっけかな?他の人だったかも?)のように、市街演劇と言って、見に来た人まで巻き込むような演劇が行われた。
第二世代はつかこうへい。蒲田行進曲。ここで少し演劇に娯楽の要素が加わり、第三世代、80年代に入り、野田秀樹たちに代表されるような、「軽い体の動き」を前面に出したような演劇が現れる。
これらの演劇の変化は、若者の文化とちょうどマッチするというのだ。
つまり、60年代後半あたりは、大学紛争があってそれまでの大学のあり方に疑問を投げかけるなど、既存のものに対する反抗心をむき出しにしてぶつかって行く若者の姿勢が目立っていたのに対し、80年代に入ると、もっと「軽く」「やさしく」という風潮が重んじられるようになった。そしてそのことは、ウオークマンなどの小道具の発達もあって、若者たちがどんどん自分一人の世界に入って行くということになっていった。
最近では、携帯メールをどこでも構わず、時には講義中でさえも打って、「そこにいない誰か」と交信をする。インターネットカフェなども同じ。
それが、80年代頃はまだそういうことが意識化されていたのだが、最近ではそういう産業化の更なる発達(ネットや携帯)も手伝って、若者たちが何の疑問もなくそういう一人の世界にすっと取り込まれて行く。何事もあまり深入りせず、ぶつからず、優しく、自分一人に引きこもって行っている。
それらの小道具がそのような若者を作り出して行く格好の小道具として働いた原因としては二つのことが考えられる。
一つは、社会学者の栗原あきらさん(涁?字がわからない。)がおっしゃっているように、どんどん産業化社会が進み、時代の流れが速くなって行っている、そのような変化に巻き込まれていかないための一つの防衛手段だろう、ということ。
もう一つは、60年代70年代のアングラ劇などにも象徴されるように、その時代にあまりにも既存の価値観を壊しすぎてしまったために、様々な価値観が共存し、浮遊するようになった。その結果、何か一つの価値観に頼れないかわりに、他の価値観とぶつかることもないので、そのようにその中の一つにひっそりと身を隠していた方が楽である、ということ。これは本田先生の解釈かな?
というようなところで今日の放送は終わりでした。
むむー、そうか。なるほど。。そういうつながりもあるのだなあ。
今日はただ引き込まれて聞いてしまっただけだが、テキストを早く読んでみたい。
確かに、何かの出来事というのはそれ単独で起こるのではなく、他の様々なことと絡み合って起こっていることだと思うので、これはとても興味深いお話であった。
休日は、こういうゆとりがあるから好き♪
by blogbebe
| 2004-11-04 20:24
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