高校英語教師の授業日記

思ったことなどを時々書いてます
blogbebe.exblog.jp
by blogbebe
Top
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
2004年 07月 29日 |
おじのお葬式から一晩明けた。今朝も母にメールしていて、電車の中で涙が出てきてしまったりして困ったが、久しぶりに学校に行ったらすっきりと気分を替えることができた。午後は、前の同僚のマンションに遊びに行って、お昼をごちそうになり、いろいろ話をしていたらまたもとのペースに戻ってきた。ありがたい。いつも私は仕事と職場の人たちに救われる。

今日は午前中勤務だったので、久しぶりに本を読んで過ごした。今日読んでいた本は、シリーズ認知言語学入門の5巻。まだ全部読み終わっていないけれど、かなり面白い。私が修士論文でやったところと少し関係があるところもあり、これを読んでいたらもう一度修論を書き直そうかという気になってきた。その前にまだやりたいことはあるのだけど。

この本の感想もいろいろあるのだが、今日、本を読むのに少し疲れたときにふと職員室にあった読売新聞を見るともなしに見ていたら、「編集手帳」という、まあ朝日でいえば天声人語みたいな記事があり、その中に「文法」という文字が出てきたのでちょっと読んでみた。そして、思わずため息が出てしまった・・・あぁ、文法って誤解されているなーと。。

どんな内容かと言うと、今年は「風立ちぬ」で有名な堀辰雄の生誕100年だそうで、その話であった。堀氏はその小説の中で、フランスの詩人、バレリーの「風が起きた。生きねばならない」という意味の詩を文語調に翻訳しているらしいのだが、その訳というのが「風立ちぬ、いざ生きめやも」というものらしい。しかしこれは実は誤訳で、この訳だと「生きようか、いや断じて生きない、死のう」という意味になってしまうと国語学者の大野晋さんが指摘をしていらっしゃるということなのだ。

それはそれでいいのだが、その事実をこの記事ではどう扱っているかということが問題。堀氏は結核と戦いながらすばらしい作品を残し、たった48年の短い生涯を閉じている。そのことを紹介し、この記者は次のように結んでいるのだ。

「『いざ生きめやも』・・。その言葉が文法を超えて輝き続けるのは、人生の重い結晶だからだろう。」

え??なんか違うんじゃない?

確かに堀氏はあふれるばかりの才能を持ちながら、短い生涯を輝かしく過ごされたのかもしれない。でもそのことと「誤訳」とは分けて考えるべきではないのでしょうか?だって誤訳は誤訳であって、いくらそれが堀氏の人生と結びつくような内容であったとしても、もとの詩を間違って解釈していたらそれは訳としては直すべき箇所なのではないですか?それとも、自分の人生と何か共通するような思いがあるときは、誤訳をしても構わないとでも言いたいのでしょうか?

「文法を超えて輝き続ける」という言い方に、あぁ、この人にとって「文法」というのは言葉にとっての「余計なもの」でしかないのかな、と思った。この言葉が輝いているのは認めるとしても、だからといってそれが「文法を超えている」ということではないだろう。この言い方は、例えば「文法なんか知らなくたって言葉はしゃべれるし、通じ合える」という言い方にとても良く似ている。

"grammars code best what speakers do most” (話し手がもっともよく行うことを、文法はもっともよくコード化しているのである)という、DuBoisの言葉を思い出す。文法は単なる意味のない規則なんかではなく、人間が言葉を使うにあたってもっともお互いに理解しやすいように工夫された形なのであるのではないか。新しい言葉がどんどん産まれたり、また、よく使われる言葉は省略されて言いやすい形に縮まって行くことなどもその一部である。

新聞のような、普通の人たちが普通に目にするものに、このような誤解を含んだ意見が書かれるというのは、とても心外なことである。しかも読者の投書ではなく、記者が書いた記事に。

何かを信じこんで、疑うということを知らないような人に、そして自分のイメージしていることでしか世界は構成されていないと考えるような想像力のない人に文法の面白さを説得する気は毛頭ない。でも、なんだか残念だなぁ・・と思ったひとときであった。

↓となりの家の屋根に乗ってるうちの猫。夜だったのに、ふさわしい機能を使わないでとったらこんなホラーな写真になりました。一応、あくびしてるんですが分かりませんよね。闇夜の黒猫。
a0027280_21205145.jpg

[PR]
# by blogbebe | 2004-07-29 21:25 |
2004年 07月 28日 |
今日は、おじのお葬式だった。これまでいろいろな人の式に出てきたが、私の中では一番心に残る、いいお別れの儀式であった。

まず、会場に着いたとき、その規模の大きさに驚いた。大きなお寺に大きなテントが張られ、そこに受付の人がものすごくたくさんいらしたのだ。初め、私は姪なんだし受付とか手伝うのかなーなどと思っていたのだがとんでもない。私の出る幕なんて全くなしだった。

そして中に入り、おじの遺影の周りを取り囲むお花の多さにも驚いた。送ってくださった方々のお名前を見てもそうそうたるメンバーで、私などは初めておじが偉い人だったのだと認識したといっても過言ではない。

しかしもっとすごいなと思ったのは、来てくださった方々がみなさん本当におじの死を悲しんでくれているということがひしひしと伝わってきたことだ。

控え室でいとこの奥さん(つまりおじの義理の娘に当たる)と話しているときも、奥さんは舅の死を本当に悲しんでいた。もっと子供たちを連れてお父さんのところに遊びに行けば良かった、と言って涙を流していた。おじの意識がほとんどなくなっていたときも、子供たちにはちょっとショックが強いだろうと直接会わせない判断をしたようだったが、それでも「お父さんの記憶に子供たちの姿を残してあげたかった」と本当に後悔している様子だった。

いとこと奥さんは結婚してもう5年くらい経つが、義理のお父さんに対してここまでの気持ちを持てるというのは、確かにその奥さんの人柄がとても素直でいい人だということもあるのだが、やはりおじのことが義理の父として大好きになったからだろうと思う。

もちろん悲しんでいたのは親族だけではない。おじと関わりが深かった5人の方が弔辞を読んでくださったのだが、どれも心を揺さぶる、本当にいい弔辞だった。おじと同じくらいの年の、長くおじと研究を続けてきた先生や、まだ大学院を出て就職したばかり位の若い人など、幅広い年齢層の方達がみんな同じように悲しんでくださっていた。

お焼香の列も全然切れずにつづいた。何分間つづいていたんだろう。。あんなに長いお焼香は初めてだった。普通は一人三回ずつするのに、今回は一度ずつだったのに。10人くらい一度にお焼香できたのに・・・そしてそのお焼香も、義理っぽい人は全然いらっしゃらなかったように思う。目をまっ赤にしていらした人も何人も見かけたし、若い女の子でさめざめと泣いている人などもいらしたりして、おじは本当にいろいろな人たちに好かれていたんだなということがよくわかった。

私もこんなにお葬式で泣いたのは初めてだったと思う。

悲しみと、感動と、両方あった。おじともう話せない悲しみ。そして本当にたくさんの人たちに好かれ、頼りにされていたんだな、という感動。

それでも自分の研究もおろそかにせず、きちんと業績を上げていたことも報告されていた。きっといろいろなことに力を注いで生きてきたのだろう。だからこんなに早く行ってしまったのかもしれない。

細く長く、健康的に生きて行くことも大切だけど、太く短くというのもカッコいいな、と今日は生まれて初めて思った。私はそんなに意志が強くないのでたぶん細く長くパターンになりそうな気がするが・・・。太く短く、そして最期にはきっちりとおばといとこに「いい人生だったよ、ありがとう」とお礼を言うことも忘れない、誠実な生き方・・。

何かあったときはおじのことを思い出して頑張ろう。

おじさん、本当にいままでありがとう。

a0027280_19442796.jpg

[PR]
# by blogbebe | 2004-07-28 19:50 |
2004年 07月 27日 |
このごろ、全く授業について考えていないのでフツーの日記になってしまっているがあしからず。今週末くらいからまた復活する予定です。

ということで今日もぜんっぜん本を読みませんでした。今日は同僚の誕生日祝いと称して、同じ分掌で仕事をしている女性4人で集まってお昼&お茶会をしました。

自分たちで言うのも何ですが、私たち4人でこの分掌は運営されているといっても過言ではなく、実際はあと3人男性がいるのですが、別に悪い人ではなくてみんないい人なんですが(たぶん)(←たぶんなんて失礼だな)、「仕事は楽しくやろう!」と良く言っている割には、仕事を楽しくやるということは一体どういうことなのかということが分かっていないんじゃないかと思われるような仕事ぶりなので、結果、私たち4人は団結してしまうということになるのであります。(意味、わかりますよね^^;;)

で、今日は1学期のお疲れさま&同僚の一人が大台のお誕生日&同僚の一人がお引っ越し完了、ということで持ちよりパーティーと相成ったのです。

おじのお通夜が昨日、お葬式が明日なので、当初、今日はキャンセルかと思われたのですが、その辺はさすが叔父。たぶん分かっていたのでしょう。妹も今日はたくさん仕事が入っていると言っていたし、母も今日は前からの予定が入っていたらしく、それを全部避けてくれるなんて、おじが全部考えてくれたとしか思えないです。ありがとう。。

で、今日はそんなに長い時間ではありませんでしたが(4人中2人がお子さんのお迎えだったので早めに解散だったのです)、話が途切れることもなく、というか途切れるわけもないんですが、大変楽しいひとときを過ごしました。仕事の愚痴、プライベートのこと、学生時代の思い出、嫁姑問題、などなど・・うーん、やっぱ女同士は楽しいな。

明日は叔父のお葬式、あさってはまた前の同僚の家に遊びに行くことになっています。それが済むまでは読書はできないだろうな。金曜日からまたちゃんとした「授業日記」に戻したいと思います。

↓今日、みんなであげたお花。夏らしくてきれいです。
a0027280_23342828.jpg

[PR]
# by blogbebe | 2004-07-27 23:36 |
2004年 07月 26日 |
日曜日の早朝、叔父がとうとう亡くなりました。今日はお通夜、あさってが告別式です。

ここのところ叔父ことを考えると涙がすぐに出てきてしまい、人が一人この世の中からいなくなるということは、家族にとっては本当に大きなことなのだ、ということをしみじみと実感していました。

でも、そんな気持ちも今日のお通夜で少し区切りがついた気がします。

今日のお通夜は、お坊さんも呼ばないなど形式張ったことは何もせず、ただ叔父の家に本当に身内だけが15人ほど集まってお線香をげ、食事をしただけでした。

親戚が集まるのも久しぶりだったし、何も気を使わないでいろいろな話ができとてもリラックスした時間を過ごしました。そしてこんな雰囲気を叔父はきっと喜んでくれているだろうなと思いました。

うちの父は親戚付き合いが嫌いでなかなか親戚同士で集まる機会を作ってくれなかったのですがこの叔父はとても温かい、人好きな人で、遊びに行くといつもニコニコ笑いながらいろいろな話をしてくれました。叔母もその叔父にふさわしいとても聞き上手な人で、料理もとても得意でいつも実家では見たことのないような美しい料理が出てきて、私にとってはこの叔父叔母の家庭は理想の家庭でした。

そんな叔父にもうあえなくなるということを考えるとすぐに涙が浮かんできてしまうのですが、それでもやはり暖かい人柄というのは人の心に残り、その思い出があるだけでとても嬉しいものなのだなということを、今日いろいろな親戚と話しながら感じたのです。

人と話をすること自体、とても楽しいということは昔から感じていましたが、それでもやっぱりそればかりになってしまうと自分のことがおろそかになり、やるべきことができなくなるということが私の中ではいつも葛藤でした。他の人はそれほどつきつめてこのようなことについては考えないのかもしれないのですが、うちの父と叔父の存在はそれぞれがその葛藤の両端だったような気がします。だからこそ私は一方で父のような生き方を求め、一方で叔父のような生き方を求め、その間で行ったり来たりしていたのだと思います。

話はすこしそれますが、うちの近所にとても優しくて話を良く聞いてくれ、いわゆる「インフォームドコンセント」というものを100%実践していると言えるだろう歯医者があります。私は初めてその歯医者に行ったとき、「歯医者は怖い」というイメージが変わって行きやすくなったし、歯が悪くなるのには歯だけじゃなくて体全部に気をつけていなくてはいけないな、という気持ちになったりしました。

しかし、いくら通っても肝心の歯は全然良くならなかったのです。

あまりにも辛いので、結局私の家族がずっと通っている怖い歯医者のところにちょっと行ってみました。そうしたらその優しい歯医者がとんでもない「ヤブ」だということが分かったのです。

削らなくてもいいところを削り、根本的な治療を何一つ行ってくれていなかったのです。

ただでさえ怖いその歯医者は、「なんでうちにすぐ来なかったの?!あーあ、こんなにされちゃって・・・これをやっちゃダメなんだよなー・・・」とますます怖くなってしまいましたが、それからしばらくそこに頑張って通ううちにだんだんと良くなって行ったのです。

先ほど私が書いた葛藤は、実はこの歯医者の違いに近いのです。

愛想が良くて人柄がいくら良くても、専門分野で肝心なところが抜けてしまう・・・そうなるのがとても怖いのです。それよりも多少愛想が悪くても信頼が置けるような人になるべきじゃないかなと思うと、例えば担任なんかをやっていても今ひとつのめり込むことができなくなってしまうのです。生徒の気持ちを聞いたり、いろいろ話したりして仲良くなることは悪いことじゃない。でも英語の教師としてそれでいいのか、と思ってしまうのです。そして両方を100%満足にこなせるほど私には能力がないのです。そうすると自ずと担任業務からは距離を置くことになってしまいます。

でも今回、叔父との悲しい別れを通じて、当たり前なのかもしれないけれどもやっぱり人間関係というのはとても大切だということを改めて感じました。もちろん叔父は先ほど書いた歯医者のような人間ではありません。専門分野でもかなりの業績を上げています。だから叔父はその両方ができる、能力のある人だったのかもしれませんが・・

叔父が私の中に残してくれた、何とも言えない暖かい思い・・・それは叔父が亡くなった今、本当に貴重なものだと感じるのです。

授業を大切にし、私自身が勉強をやめないこと・・・これは絶対に必要なこと。でも、叔父のように他人に対して精一杯誠実であるよう努力すること、これも忘れてはならない大切なことなのですよね。私はそれを忘れかけていました、というかむしろ忘れようとしていました。

私が人生を終えるまであと何年、何十年あるか分かりませんが、ちゃんと生きられたなと最期に思えるようにしたいです。


a0027280_22502996.jpg

[PR]
# by blogbebe | 2004-07-26 23:00 |
2004年 07月 24日 |
PTA役員会、行ってきました。暑いなー、面倒くさいなー、と思っていたけど、実際に教えている生徒のお母さんに会えるというのは嬉しいと言うか面白いと言うか、いいものなんですよねー。私は結構お母さん方と話すのは好きみたいです。

私は仕事だと思って行くけど、お母さん方だってお仕事を持っていらっしゃる方がほとんど。貴重なお休みをつぶして、集まっていらっしゃるのです。そして私は「代休がもらえない」と文句を言っていればいいけど、お母さん方は子育てに代休も何もないんですよね。そう思うとホント、すごいなって思ってしまいます。

でもみなさんとても和気あいあい。OBのお母さんも数人見えていて、「せっかくですからご挨拶を」と言われ、「今はみなさんお忙しいところ集まって大変だと思っていらっしゃるかもしれないですが、こうやって集まっていろいろ活動することで、知らなかったことも知ることができるようになったり、人間関係も広がったり、なによりご自分のためになりますからぜひ積極的にご参加ください」なんておっしゃっていて、その言葉には結構感動しました。

やっぱりお金のためとかじゃなくて「生き甲斐」「やりがい」みたいなものが一番大切なんだよな〜、って改めて思いました。

でもだからといって、そういう気持ちに甘えて、すべてボランティアで、みたいな考え方は絶対おかしいと思います。だいたいボランティアって美談にされることが多いけど、人間は霞を食って生きて行けるわけじゃなし、きちんとした仕事にはきちんとした報酬を求めるということが当然の世の中にならないと、いい人ばかりが損をするという構造が変わって行かないと思います。

私が教師になった初めの年に思ったこと。それは、「こんなに好きなことやってお金がもらえるなんて、なんてすばらしいんだろう!だからこそ、お金のために仕事をやるようになったら絶対に辞めよう。子供に対してそれは失礼だから」ということでした。

でも実際はやりたくないこともやらなくてはならないときもあるし、子供は思った通りになんて全然ならないし・・そういうときにお金がもらえてると「しゃーない、頑張るか」って気になります。そしてしかたなく頑張ってるうちにまた新しい局面が見えてきて面白くなる・・・あぁ、辞めなくてよかった、と思う。

そうすると私にとっては給料は「歯止め」みたいなものですかねー。。お母さん方の域には全然達していませんね〜(^^;;

なんか何を書いているのか分からなくなりましたが、今日はそういうことをいろいろ考えられたってことで、よしとしましょう。

でも勤務場所がちょっと遠いんですよねぇ。。近くにもたくさん学校あるのに、なんで1時間以上かかるところに行かせるんでしょうねー。これが30分以内くらいで行き来できればもうちょっと仕事しやすいのにな。
[PR]
# by blogbebe | 2004-07-24 18:23 |
2004年 07月 24日 |
今日はPTAの役員会がある。私は学校の中では一応、PTAの担当の仕事も入っているので、今日は土曜だが出勤する。

しかし正確に言うと、これは出勤ではないらしい。なぜなら、今日行ったからといって代休が取れるわけではないからだ。

ずっと前は当たり前のように、土曜日に出勤したら代休が取れた。今でも、生徒の部活の試合の引率などでは取れる。でも、数年前から、このPTA関連の仕事については、管理職がとてもおおらかな人だったり融通が利く人だと、「公的にはダメだけど、土曜に来た分、今日はもう帰っていいよ」とか言ってくれたりして、平日に帰ったりすることができたが、あくまでもそれは管理職次第という風に替わってきた。

そして今では全くダメになってしまった。

PTA自体も、今年から正式には活動できなくなった。つまり、これまでは生徒たちからPTA会費というものを集め、それをもとに活動をしていたのだが、ことしからはそれすらもできなくなったのだ。「PTAに入会しますか?」というお知らせが来て、「入る」人は入会金を5000円払わなくてはならない。そして驚いたことにそれは教師にも課せられる!!

教師が会費を払ってPTAの会員になる。。。開いた口が塞がらない。

管理職や、管理職狙いの人(なんていうと怒られるかな^^;;)、または何らかの考えを持っている人だろうが、教員の中にも入会した人はいるようだ。しかし私は実は入っていない。だって入会金を払うなんておかしいじゃないですか?こっちは仕事でやっているのだ。

でも、今日私が行かないと、他の人が替わりに来なくてはならなくなる。それに、うちの学校の副校長は管理職らしからぬとてもいい人なのだが、彼を困らせるのは私の本意ではない。だから仕方なく行く。

でもなんかおかしいよなー。。教師が気持ちよく仕事ができ、そして保護者の方々とともにいい学校を作って行きましょう、という気持ちになることを邪魔していますよね。

もちろん、保護者だけにお金を出せといっているのではない。お金が必要になることはしなければいいだけのことなんだけど・・・なかなかそう簡単にはシフトできないのも現状なんですよね。

これからきっと少しずつ時間をかけて、誰も会費を払わないで活動できるようなことを考えて行くことになるのでしょうか。それともやっぱり会費は必要ということで、あちこちの同窓会などでやっているように、有志による会費徴収がつづいて行くのでしょうか。

何かいい方法はないんでしょうかね。
[PR]
# by blogbebe | 2004-07-24 09:47 |
2004年 07月 22日 |
今日は、以前から入院している叔父の病院にお見舞いに行った。昨日の夜、ちょっと危ないという連絡が実家に入り、両親はすぐに向かったのだが、私と妹はそれを知ったのが今朝。持ち直したということも聞いたけれど、私も妹もものすごくお世話になった大好きな叔父さんなので、行こうということで行ったのだ。

病状は一応安定はしていたが、一睡もしていないらしい叔母といとこが憔悴しきった顔で迎えてくれた。叔父も、私と妹のことは分かってくれたみたいだったが、だいぶ苦しそうで私たちもとても辛かった。

結局、明日早いという妹は早めに帰ったが、叔母は家に帰って一眠りしたいということで帰り、いとこも別の病室で借りたベッドで仮眠したいということで、だいぶ遅くまで私はひとりで叔父を見ていた。

大好きな叔父。うちは父が厳しかったので、父の弟に当たるこの叔父にはだいぶ愚痴を聞いてもらったり励ましてもらったりして、本当にかわいがってもらった。

つい数ヶ月前までは元気な姿で話をしていたのに。

あまりにもはかない人間という存在。

去年、一緒に大学院で勉強していた、現役の博士課程の韓国人の女の子がいた。彼女もお父様の具合が悪くなり、しばらく帰国していたのだが、何か医者とのトラブルがあったらしく、それに有効に対処できなかった自分に大変腹を立てており、「言語学なんて何の役にも立たない。私は韓国に戻ってもう一度大学に入り直し、弁護士になる」と言っていた。

その後、どうしているかは知らないが、本当に気持ちはよくわかる。うちの父も去年の冬に大きな手術をしたのだが、そのとき本当に自分の無力さに腹が立って仕方がなかった。

もし子供の頃、こういう体験をしていたなら、確実に医療関係の道に進んだな・・・と思ってしまうくらい気持ちであった。そういう人って世の中にたくさんいらっしゃると思う。

今日は学校で、昨日届いた「シリーズ認知言語学入門」を読んでかなり面白く、久しぶりに自分の思うところとか考えとかを書いたりとかしていたのだが、叔父さんの姿を目にしたらもうそんなの吹っ飛んでしまったような気がする。

何もいらないから、叔父さん、元気になって!と思わずにはいられない。

授業と全く関係のない日記で、読んでくださった方、すみません。
[PR]
# by blogbebe | 2004-07-22 22:23 |
2004年 07月 21日 |
こんな時間に家にいることができるとは、やっぱりありがたいなあ。私が休職する前には夏休みには丸々研修が取れたので、その時に比べたら悲しくなるけど、それでも時間的に余裕を持って次の学期のことが考えられるということはとてもありがたいことです。

今日は普通に出勤、午前中は少しだけ残った仕事をして、あとは本を読んで過ごしました。今日読んだのは、『言語』という雑誌の2003年10月号のコピー、「冠詞」についていろいろな研究者の方々がかいた短めの論文を集めたもの。

ある方の研究によれば、冠詞というのを持つ言語と持たない言語があるらしい。じゃあどういう言語が冠詞を持ち、どういう言語が持たないかと言えば、はっきりと100%あてはまる共通特性は見出せないが、傾向はあるという。

その傾向とは、例えば「象は鼻が長い」のようなトピックーコメント構造を持つ言語に於いては、「象が鼻が長い」というような主語ー述語構造が主である言語に比べて冠詞は現れにくいという。それはなぜなら、トピックということで、もう既出事項であるということを言っているからであり、定冠詞をつける必要性を生じないからだという。

なるほど・・・

でも、本当にそれでいいのか、というのは例も反例も少なくて議論自体が短いために、ちょっとよくわからない。でも少なくともそこであげられている、あまり名前も聞いたことがないような言語をいろいろ見てみると、そのような傾向が見られるらしいのです。

別の論文ですが面白かったのは、冠詞とよく似た機能を持つ「格指示詞」と呼ばれているらしい品詞の紹介で、台湾のヤミ語という言葉では、一般名詞につく語と、生きている人間につく語、故人につく語がそれぞれ違うらしいのです!話題となっている人間が生きているのかもう亡くなっているのかで、つく語が違うというのはすごいなあ。。どういうことなんだろう?

また同じく台湾のツォウ語には、そのものが見えるのか見えないのか、また見えるとすればそれは近くにあるのか遠方なのか中くらいなのか、また見えないとすればそれは既知のものなのか未知のものなのかということでつく格指示詞が違うということなんですよね。。。そしてそれぞれが格変化をするということになると、これはもう話せるようになるなんて言うのはまた夢の夢という気がしてきますねぇ。もっとも話したいともあんまり思わないですけど・・・(- -;;

他にも、日本語には同じような冠詞があるとすればそれは何なのかとか、または英語の冠詞の歴史とかいろいろあったけれど、もうちょっと突っ込んで書いてくれたらもっと面白かったのになあ。。もう終わり?っていう論文が多くて少し残念でした。

そして午後は寄り道しながら帰ってきたら結構遅くなってしまった。気付いたらもうこんな時間・・・なんか普通の日よりもやっぱり夏休みの1日の方が早く過ぎ去りますねー

・・・などと書いていたら、昨日注文したばかりの大修館のシリーズ認知言語学入門第5巻が到着しました!便利だなー。早いなー。学会で買えば2割引だけど、そこまで待てないし。3月までは学生だったから生協で買っとけば良かったと思うけど、そのころはもうなんか頭の先から足の爪の先までいっぱいいっぱいで、新しい本を読もうという脳の容量がなかったし。

明日は早速これを読まなくちゃね♪

でもまたこんなの読んでると、「また難しそうな本読んで〜〜」とか言われるのかなー。マジで気になっちゃうんですよね。というかたぶん私もそこで、「この本、面白いんだよ〜」と言いながらかいつまんで面白さを説明してあげたりとかできればいいのでしょうがね。そーゆーのがちょっと苦手なんですよね。ついヘラヘラと笑ってごまかしてしまうのでした。。どっかで隠れて読んでたいなあ〜・・・でも今年は学校中が工事なので、隠れ場所がないんですよね。小説とかだと何も言われないのになぁ・・・。

※最近は暑すぎてさすがの猫もクーラーの部屋で寝るようになりましたが、そこそこの気温のときはこのパソコンの乗っていないパソコン机でべたーーっと寝るのが日課です。
でもほんと、今日も暑いですね。電気代が怖いよ(> <)
a0027280_17143958.jpg

[PR]
# by blogbebe | 2004-07-21 17:20 |
2004年 07月 20日 |
とうとう今日で1学期が終わった!ヤッタ〜〜(^^)と開放感に浸りたいところだが、もう授業はずいぶん前からなかったし、今年は担任もないので、特に何の感慨もなく1日が終わった。

しかし今日は東京は39.5度だったらしい。しかもうちの学校は東京でも暑い場所に位置しているので、おそらく40度を超えていたのだろう・・(> <)・・今はまだ若い(?)からいいけど、あと20年位したら東京の気温は一体どうなっているのだろう??45度とか50度とかになってはいないだろうか?やだなぁ・・・年とったら今よりもっと暑さが堪えるだろうし。。「暑くて死ぬなんて辛いでしょうね」と同僚の40代の先生に言ったら、「はぁ?」って顔された。考え過ぎ?

しかし生徒たちはこの猛暑の中、たかが(!!)終業式のためによく来ていた。しかも今年は教室でHRができないので、体育館でクラスごとに通知表をもらっていた。通知表はやっぱり欲しいんだろうな。というか儀式に来るのは当たり前?

でも私はこの儀式関係が好きじゃない。全く、全然、好きじゃない。特に、始業式とか終業式とか、集まって校長の話を聞いたりするのはいいけど、体育館にクラスごとにまっすぐ並んで立つとか、「頭をふらふらさせない!」とかいう生徒指導の先生の怒鳴り声とか、もう全く生理的に受け付けない。いいじゃん、別にまっすぐ並ばなくたって。立ってなくたって。って思ってしまう。あと、「気をつけ!礼!」も大嫌い。なんかすごく恥ずかしくなる。だから私は自分の授業でも絶対に号令はかけさせない。いきなり始める。うるさいときは黒板に書き始めるか、簡単なディクテーションのテストをする。それがいいことなのかどうかわからないけど。

まあ、いずれにしても無事に今日、終業式も終わり、生徒たちは明日から晴れて夏休みに突入します。私たちはまだまだ勤務ですが、それでも授業がなくて生徒が来ない、というのは大きなリフレッシュです。

中村雄二郎さんの「日本文化における悪と罪」も取り寄せ先の図書館から届いて借りてきたし、大修館のシリーズ認知言語学入門第5巻、「認知文法論2」もアマゾンに注文したし(アマゾンでお奨めになっていた第3巻「認知意味論」松本曜編が予想以上によくまとまっていて面白かったので、別なのも読んでみようかな、と・・・)、暑くて論文のコピーとかにはいまいち行く気にはなれないんですけどね(^^;;

しかし、今日は大好きな雑誌 ku:nel の発売日で買ってきてしまったので、明日はこの雑誌を読むのにだいぶ時間取っちゃうだろうな〜。と思っています。

a0027280_2133426.jpg
[PR]
# by blogbebe | 2004-07-20 21:37 |
2004年 07月 18日 |
a0027280_221654.jpg最近、世間のお笑いブームに乗って、結構その手のテレビ番組を見ている。例えば土曜日の「エンタの神様」とかそのあとの「99サイズ」とか。タイミングが合うと、とんねるずの食わず嫌い王選手権がある番組とか・・

それで時々ふっと思うことがある。

この人たちは言葉の使い方がうまいなあ〜・・と。それが笑いをもたらしているのだ。

アメリカのジョークとかは「???」っていうものが多い。前から書いているが、よく教材で使うL.A.Hillの短編集なんてまさにその典型。(あれ?Hillはイギリスか?)一応、一つ一つの短編にオチがあって、最後の一文を読むと「わっ」と笑うことが期待されているのだが、どうも今ひとつ笑えない。「あぁ。」と妙な納得しか浮かばない。

前に、中学校でこのうちの一つを取り上げたときも、「オチがあるって言ったのに全然笑えないじゃん!」と大ブーイングが来たのだが、たまたまその短編を読み終わった頃、クラスに、誰かの家にホームステイしている留学生が1日遊びにきたことがあった。英語の時間があったので、「みんなで彼女に英語で質問してみよう」という話になったのだが、なかなか話が盛り上がらない。

そうしたら一人の生徒が、「あれ、読ませてみようよ。笑うかな?」と言い出したのだ!そうだそうだ、そうしよう、ということになり読んでもらったら・・・最後に笑ったのだ!!!「この話、面白い?」と聞いたら、笑いながら「面白い!」と言い、みんなあっけにとられたのであった。これぞ異文化交流!!とえらく感激したことを覚えている。

でも、話は戻るがナインティナインのしゃべりなんて、昔は私はあまり面白いとは思わなかった。でも今は、なんか知らないが話を聞きながら笑っている。とんねるずもそう。さんまはちょっと飽きてきちゃったけど、それでも「踊るさんま御殿」はすごく好きで毎週VTRに撮って見ている。でも島田紳介はあんまり笑えない。

その違いはどこからくるのだろうか。言葉の使い方とか「間」とかそういうものでつい笑いに引き込まれる。もちろん、そこから見えてくる人間性みたいなものに共感しているのかもしれないが、それではどこからその人間性が見えるのだろう?また、前に面白く思わなかったのに面白く思うのは、何か「慣れ」のようなものも関係しているのだろうか?

私と同い年の大阪の言語学者、早瀬尚子さんがご自分の本のあとがきに、次のようなことを書かれていた。

「ことばに興味を持つようになったのも、何気ないことば使いが、その人のそのときの気持ちを、思わず知らずふと露呈してしまうことを感じる機会が多々あって、それゆえにことばは人間の心と切り離しては考えられないものだと実感するようになったからかもしれない。自分と他人を結びつけ、あるいはその関係に苦しみ、傷つき傷つけられるのも、まずことばによるのではないかと思い、そのようなことばの裏側を考える世界があればと思っていた。ことばの研究とは、究極的には人間関係の研究でもあると信じてきたし、またそうであってほしいと願い続けてきた。少なくとも、そうでなければことばの研究など私にとっては無意味な学問に過ぎなかった。」(早瀬尚子『英語構文のカテゴリー構成』より)

どんな人でも、言葉によって様々な感情が湧いたり、勇気づけられたり怒ったりするわけで、ことばを学ぶことはそれがどういうことなのかということを考えることに一歩近づくことなのだ。

知りたいことがたくさんある。でも、テレビも見たいし遊びにも行きたいしエアロビクスにも行きたい。友達とおしゃべりもしたいしおいしいものも食べたりしたい。

1日が短い。短すぎる。このごろ本当にそう思う。

※写真は先週、紀伊国屋のスーパーに行ったときに見つけた(そして人目をしのんで携帯で写真を撮った)「タイ料理スパイスセット」。タイ料理、おいしいですよね。生春巻きとか。でも自分では作れない。でもスパイスってなぜか惹かれます〜〜♪
[PR]
# by blogbebe | 2004-07-18 22:13 |
ページトップ
XML | ATOM

個人情報保護
情報取得について
免責事項
新緑 Skin by Sun&Moon