2011年 03月 31日
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なるほど…と思わせてくれる文章に出会ったのでリンク。
「専門家」の3つの大罪
ある人がその専門の道に行こうと思うのは、「その世界を何とかしたい」あるいは「その世界をもっと知りたい」と思うのが動機のはずである。
でもそれはその人の好奇心であって、他人の好奇心ではない。
つまり、他人を自分と同じような好奇心で満たすことは出来ない、
自分と100%同じところに疑問を持ったり興味を持ったりする人はいない、
ということがやっていくうちに少しずつ分かってくる。
そうするとどうなるか。
自分の興味は自分にしかないのだなあ、といつか小さなあきらめを経験するのではないか。
そして他人にそれを伝えようという気持ちを少し失うのではないか。
それは悪いことではない。いいことでもないけど。
それが私のやってる分野みたいに「命に別状ない」ことならいいけれども
今回のような原発のことや、あるいは放射線関係のことだったらどうなっているだろうか、と考える。国民は素人だし大勢いるから、このあたりのセンで収めておくのがいいだろう、というような計算はないか。本当のことを知っているのは自分だけでいい、だって他の素人には分からないから、とちょっと思ってしまってはいないか。
また、少し話は変わるが、医者である父が昔言ったことでとても印象的な言葉がある。
それは、「病気は治せない」という言葉。
進行を遅らすことは出来るかも知れない。
もちろんそれはとてもありがたいことで、そうやって医療は進歩してきたし
私自身もその恩恵を沢山被っている。
でも、たぶん医者だって子供の頃は「病気を治してみんなを救いたい」と思っていたはずで
それがやっていくうちに無理だと言うことに気づき、
もちろん貢献はしているけれども100%助けることは出来ないと気づいて小さなあきらめを経験するはずだ。
仕方ないんだ、命あるものはいつか消えるんだし、と思って。
で、原発の専門家、放射線の専門家、政治家はみんな
もしかしたら「こんな世の中なんだからみんなも諦めてね」と言っているのではないか
と、先ほど紹介した文章を読んで私は思ってしまった。
でも「こんな世の中」を本当に私たち全員が求めたか、というと
そんなことはないのではないかと思うのだ。
さんざん便利な生活を提供しておいて、ほら、こんなに快適でしょう?と言って
こういう生活を続けるためには原発は必要なんだよと
もう生活を落とせなくなってしまってから説得する、という手法。
もちろん最初からそのつもりはないだろう。
便利なことはいいことだという価値観の中で今までは進んでいた。
でも、別にそうでもないんだ、という人たちも増え始めていて
田舎暮らしがはやったりする。
原発に反対している緑の党が第一党になったドイツのように
日本も勇気を持ってそっちの方向に進まないだろうか?
少なくとも今回のような事故の後で、そう思っている人は少なくないと思う。
私はその自分の感覚をきちんと認識していきたいなあと思う。
しかし文章にすることって難しい。
「専門家」の3つの大罪
ある人がその専門の道に行こうと思うのは、「その世界を何とかしたい」あるいは「その世界をもっと知りたい」と思うのが動機のはずである。
でもそれはその人の好奇心であって、他人の好奇心ではない。
つまり、他人を自分と同じような好奇心で満たすことは出来ない、
自分と100%同じところに疑問を持ったり興味を持ったりする人はいない、
ということがやっていくうちに少しずつ分かってくる。
そうするとどうなるか。
自分の興味は自分にしかないのだなあ、といつか小さなあきらめを経験するのではないか。
そして他人にそれを伝えようという気持ちを少し失うのではないか。
それは悪いことではない。いいことでもないけど。
それが私のやってる分野みたいに「命に別状ない」ことならいいけれども
今回のような原発のことや、あるいは放射線関係のことだったらどうなっているだろうか、と考える。国民は素人だし大勢いるから、このあたりのセンで収めておくのがいいだろう、というような計算はないか。本当のことを知っているのは自分だけでいい、だって他の素人には分からないから、とちょっと思ってしまってはいないか。
また、少し話は変わるが、医者である父が昔言ったことでとても印象的な言葉がある。
それは、「病気は治せない」という言葉。
進行を遅らすことは出来るかも知れない。
もちろんそれはとてもありがたいことで、そうやって医療は進歩してきたし
私自身もその恩恵を沢山被っている。
でも、たぶん医者だって子供の頃は「病気を治してみんなを救いたい」と思っていたはずで
それがやっていくうちに無理だと言うことに気づき、
もちろん貢献はしているけれども100%助けることは出来ないと気づいて小さなあきらめを経験するはずだ。
仕方ないんだ、命あるものはいつか消えるんだし、と思って。
で、原発の専門家、放射線の専門家、政治家はみんな
もしかしたら「こんな世の中なんだからみんなも諦めてね」と言っているのではないか
と、先ほど紹介した文章を読んで私は思ってしまった。
でも「こんな世の中」を本当に私たち全員が求めたか、というと
そんなことはないのではないかと思うのだ。
さんざん便利な生活を提供しておいて、ほら、こんなに快適でしょう?と言って
こういう生活を続けるためには原発は必要なんだよと
もう生活を落とせなくなってしまってから説得する、という手法。
もちろん最初からそのつもりはないだろう。
便利なことはいいことだという価値観の中で今までは進んでいた。
でも、別にそうでもないんだ、という人たちも増え始めていて
田舎暮らしがはやったりする。
原発に反対している緑の党が第一党になったドイツのように
日本も勇気を持ってそっちの方向に進まないだろうか?
少なくとも今回のような事故の後で、そう思っている人は少なくないと思う。
私はその自分の感覚をきちんと認識していきたいなあと思う。
しかし文章にすることって難しい。
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